自分の"好き"と向き合ってみた。
ご本人のご結婚について?というわけではない。(いや、それがキッカケなのだから既に矛盾している)
オタクとは〜でもない。よく一緒にいることが多い、世話になってるオタクのゆたかやシンイち。も文章をあげていたから私も...でもない。また、まだそれらは読んでいないから、どういったことを書いているのかは知らない(早く読みたい)
これはただただ自分のための感情の整理と吐露である。自分勝手に生きてきただけの、ただのいちオタクの誠に勝手なお気持ちに、とどめを刺されたこの瞬間を残すだけのものである。
高垣彩陽さんという人を知ってから7-8年。好きに本気になってから5年。いわゆる"ガチ恋"とよばれたりする、世間で恋と呼ばれているものかわからないものをずっとしている。
この間、私は結婚もしなければ恋も一切してない。私の中では、高垣彩陽さんにずっと恋をしていた。
ガチ恋の定義とは?
みんなはどんな気持ちで誰をどんな風に好きでいるのだろう?
そんなことを考えたりした時もあった。それは己で決めることで、こうだから違うとかこうだからガチ恋だとか他人が他所から決めるものではない。ましてや誰かの好きと自分の好きを比べたところで、そこにわたしは何も見出せなかった。
自分の中の"好き"とひたすら向き合って戦っていく(?)ことと考えた。
ただそれが全てだった。好きという感情、それだけで生きてきた。
私の性別が女性だからとそれは"恋ではない"とそれだけは言わないで欲しい。
私の中では、虚像()と実像への恋を区別できない。切り離せられない。と捉えている。
昔から、自分の脳内円グラフを作っている。今⚪︎⚪︎への関心が70%しめているな、とか、心配事が50%超えたから対処しなきゃ、とか憂鬱な気持ちが95%しばらくはなにも手に付かん。と、俯瞰して見ている時がたまにある。
うまく、現実の恋心60% 推しが好きな気持ち40%とか出来たら良かったのに。私の好き好き脳内円グラフは全振りで100%彼女にしか向けられなかった。また、常に何かに100%な気持ちで埋めていないと自分を確立できなかった。
彼女を好きになる前は違う人を100%で好きだったし、その前は違う人を100%で好きだった。
ただ、高垣彩陽さんに出会ってからは、これほどまでに深く重く長く、好きでい続けられたのは、彼女だけである。
生半可な気持ちで好きだった訳じゃない。本気で心底好きだった。
本気ってなんだ?って定義も人それぞれだろうか。わたしはこの好きに真剣だった。
意味合いを沢山もつ"好き"って言われるこの感情の一部が何か。その一部が、恋愛感情と呼ばれるものであるのも確かにあった。
2014年の出演された舞台を見た時に熱が加速し、2015年以降は、1秒でも長く一瞬でもお姿を見たい。近くで表情が見たい。それに、彼女が世に出て、合法的に?お目にかかれる瞬間があるというのに、そこに自分がいられない。という状況が耐えられなかった。全部観たかった聞きたかった。
その感情がために、抽選で外れる以外の全てのイベントに足を運んだ。海外にも。CDの封入イベントや直接お話できる機会があれば、そこにも勿論全財産()をつぎ込んでしまうような。
ずっと片想いの、想い人。だから?ゆえに?いや、好きな人に不幸になって欲しいわけがない。幸せになって欲しい。って気持ちは勿論ある。おおいにありあり。
切り離して、結果そのもの自体を彼女自身が望んだものへの過程、結果として、おめでとうございます!という気持ちはある。幸せのかたちや価値は人それぞれ。その人の中でそれが幸せなのだとしたら、それは、"おめでとうございます" なのだ。
ただ、手放しで喜べない感情があった。
明らかにご報告前とご報告後で、全然違う自分になってしまったように感じてしまう!なんなんだ!自分!!この先ずっとこんな自分なんだろうか...!?みんな推しの結婚をどんな風に乗り越えられたんだろうか...?話せるならば教えて欲しい。
想いを言葉にすることも、向き合うのも、なかなかに思っていた以上に気持ちの整理が難しかった。
発表されてから、道行くカップルを見るだけで心が乱れ吐き気が止まらなかった。下痢も止まらなかった(それはいつも)
向き合えたキッカケ。とあるタイミングがあった。昔から、タイミングやきっかけがまるでゲームの分岐点のように訪れることがある。それは苦しいタイミングもあるし、嬉しいタイミングもある。
知っているのが"演者"としての側面だけだとしても、好きなのは変わらない。その側面で好きになったのだから。
今何に苦しんでいるのか。複雑な感情の上澄みをすくえるのだとすると、"現実"を突きつけられたことに打ちのめされている。そんなことは前から分かっていたが。
声優さんは出入りや出待ちは一切禁止である。そういったことはしないが、偶然劇場前で入る時に見かけたり、ライブツアーで飛行機が同じだったり、そういったことでお姿を見られる時が何回かあった。
そんな時、私服が可愛いなぁ顔が可愛いなぁと思った矢先に、その後、同じ高さ(地面として)で、ステージ上ではない高垣彩陽として生きている瞬間に出会ったとき、めちゃくちゃに憂鬱になる。
ひとりの人としての高垣彩陽さんのことは何も知らないからだ。
ファンと演者の関係だからこそ出逢って好きになって、今の自分があるから、そこは変えられない。今までの時間も全部大切。もし、今の関係性じゃなく出逢えることが選べるのだとしても、"声優 高垣彩陽"と一ファンとして出逢うことを選ぶだろうとも思う。それほどまでに、彼女が見せてくれる景色や世界が素晴らしいものであると信じているし、そんな景色を見てきた。彼女が叶えていくものを同じ時代に生まれて、同じ瞬間を過ごせることに、幸せも感じている。ファンだからこそ見えたもの、感じたもの、経験できたこと、そして好きになったこと、その全てが自分が自分であることのアイデンティティだった。自分の"好き"だけが、指針のようになっている(自己のアイデンティティを彼女で形成していることが不安定になる)
常々、自分の好きを自分から引いたら、何も残らないと怯えるほどに、自分の好きだけが昔から自分を支えていた。それ以外に自分を肯定できるものがないから。幼少期の体験から、自己肯定感、自らの価値や存在意義を肯定できる感情がおかしくなってしまっている。今でもその体験は自分を苦しめているし、何十年経ってもその体験した事実や事柄にいまだに縛られている。それはまた別の話なのだが、自分が自分であると認められるものは、自分の"好き"なものへ向ける情熱やその感情だけだった。
(盲信しすぎてストーカーとか犯罪者になるタイプな気がする!ならないよ!)
でも、やっぱり永遠に交わらない平行線な世界に苦しくなる。
絶対に交わらない、変わることがない関係性。
苦しすぎる。
なのに、なのに、"声優 高垣彩陽"という人は、出来うる限り、誠心誠意、ファンの方への想いを溢れんばかりの愛を尽くして、寄り添い、交わろうと、交われないとしても伝えようとしてくださる人。それが、もう身に染みるほど、痛いほどに分かってしまう。そうだと分かるエピソードを並べ立てようと思えば、ファンの方の数だけあるだろうに思えるほど、高垣彩陽さんという人は、ほんとうにどこまでも高垣彩陽さんだということを、【結婚のご報告。】のブログで紡ぐ言葉で改めて痛感し、震えました。
惚れ直しましたね。(失恋した!)
ファンと演者としては、有り難いことに何回か直接言葉を交わせる機会が頂けた。その関わりの中で、ファンとして彼女の中に少しでも存在できていられることが証明できているのか、その少し輪郭をなぞれたのだとしても、それ以上の好きな感情を持っている。そう実感してその瞬間に自分がおこがましくもあり、本気で好きなのだと実感の塊が腹の底で自分を苦しめてもいた。いっそのこと振ってくれと、とどめを刺してくれ、と願っていたりもした。(何様!)
その上で、はっきりと大失恋をしたわけだ。
そんな中で、先程あげた向き合えたキッカケの話をしたい。
とあるタイミングが結婚報告後に突然訪れた。
仕事で、彼女と会える(可能性がある)現場に行くことになった。もちろん邪なファン心(会えたらいいな?)も持ち合わせてはいた。しかし、あくまで仕事場なので、不要に話しかけるようなことをするつもりは全くなかった。ただ、初めて訪れた、"ファン"としてではない機会だった。(24時間365日ファンなのだが)
内容は割愛するが、わたしから話しかけることは一切なかったが、わたしの姿に気づいた高垣さんがわざわざ戻ってきてお声をかけてくださった。(おそらくオタクがなんでここにいるんだ?ってなったんだと思う)
「ロイヤルちゃん今日はスタッフさんで入ってるの?!」と。
それを見た一緒にいたスタッフさんが
「わざわざ戻ってきて声をかけてもらえるような、良いファン活動をしてきたんだね。」と。
わたしは昔から、【好きな人のためにがんばる!!】ってよく唱えながら生きていたが、その言葉に違和感を持った。それを思ったのは中1のマラソンの練習をしている時。当時から好き好き脳内円グラフが100%だったので、しんどくてつらくて、でも好きな人のために頑張る!って無駄に走っていた。なんで?好きな人のためって何?ここでわたしが頑張って走って⚪︎⚪︎さんの為になってるの?いや、なってない。
その人を好きな自分のために頑張っているのだと。自分の好きな気持ちのためだけにやっていると。
わたしは今までも、自分の好きな気持ちを何よりも優先してきた。それが誰かを困らせることもあるし、自分をも困らせていたが。
(困らせてしまったことは申し訳がない)
とにかく、自分のために彼女が好きだし、好きでいた。
もちろん、喜んでもらえたらいいな?何か力になれていたらいいな?って気持ちもある。でもそれと好きな気持ちは別のベクトルのようなものだった。
そんなわけで、良いファンだとは自分でも思っていないわけで。自己的で利己的でただただ、高垣彩陽さんが狂おしいほど好きなだけの奴。狂おしいほど好きな上に、少しでも何かになれていたら良いのにとか、おこがましくも少しは思ってしまう。少しでも喜んで貰えたらいいなぁ。とも。おこがましい。
ただ好きなだけなのに。と。
脱線したが、自分のアイデンティティの何かが変化してしまって戸惑っていた。苦しかった。そんな中で訪れた機会で、わたしは彼女の中にファンとして存在できていた。なんだか感慨深くなった。チョロいオタクである。チョロチョロの助(改名しよ)なので、ロイヤルちゃん。って声かけられた瞬間、もう、なんだ、この人がわたしをファンとして1人のロイヤルとして(?)認識してくださっている。平行線な世界でも、ファンと演者としては向き合えている。たった一言でわたしはこんなにハッピーになれるんだ。と。分かってはいたファンと演者としての関係としては成り立っているのだと。
彼女の前ではロイヤル以外の何者でもないのだと。
諦めのような、逆に覚悟のような。
今までこんな機会に恵まれることは一切なかったし、今後もおそらくない。なんでこのタイミングだったんだろうと。まるで本当に分岐点が訪れているように思えた。分岐しないが。
そんなような自己解釈が深くなったタイミングだった。
高垣彩陽さんがミュージカル初主演を務めた「ひめゆり」以降、彩陽さんへのお手紙に何度も書いたことがある。
わたしは自分の人生を歩まなければならない。
と。
彩陽さんを追い続けるのをやめるとかでは全くなく、自分で自分の人生を決めて、自分でしっかりと自分の人生を生きなければいけないと。
なんだかうまく言葉にできないけど、、、そうゆうことをずっと考えていたのが、今回でさらにその思いが強くなった。
自分の幸せや何か希望のようなものを、自分の人生の中でも見つけていきたい。
“幸せを願ってくださる皆様…
私にもあなたの幸せを祈らせてくださいね。”
https://ameblo.jp/takagakiayahi-blog/entry-12511356127.html
彩陽さんにまたお会いできる日に、恥じない自分でいられるようになるためにもまたがんばって生きていかねばな。と。
彩陽さんのお姿を見るたびに思うわけであります。彩陽さんにも、応援されていてよかった!と思って貰えるような恥ずかしくないような人になりたいと、思うわけであります。
自分のためにしか人を愛せないので、難しいわけですが。
結婚ということで自分の中で何かが変わったような気もするし結局なにも変わっていないような気もする。いや、やっぱり何も変わらない訳はなかったが。
でもそれでも高垣彩陽さんは高垣彩陽さんで、きっとこれからまたさらに大きな夢が叶う瞬間やステキな景色を見せてくれると信じてます。
それを見るためにおそらくこれからも足を運び続けるだろうと思うあたり、つまりはどこまでいっても自分は恋心という面で大失恋をしただけの、
ただの"ファン"でありオタクだったのである。
それ以外の何者でもなく、何者にもなれなかったのである。
やっぱり、なんだかんだと、長々と想いをまとめてみたところで、彩陽さんを想うことが私の原動力ということが、分かったということだけでした。
何者でもなく何者にもなれない自分には何も残ってはいない(?)が、これからは何か自分の人生の中で見つけていきたい。と思えるようにはなった。
心から大好きでした。
そして、心から大好きです。
特にとびきりかわいい笑顔が大好きです。
誰よりも幸せで、ずっとこれからも笑っていてください。
これでやっとご本人の口からも語られているラジオも聞けそうなきがする。
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